【マイストーリー① 幼少期・前編】日本での記憶、妹の誕生、すべてが初めてづくしだったアメリカ移住etc.

昨年の11月頃のこと。

私は、これまで散々自分を偽ってきてしまったので「自分の感情をそのまま言語化するのが難しい……」と感じていた。
なんか、どんな言葉を使ってもしっくりこなくて、全然書き進められなかったのだ。

そんな私に、相川先生は、自分が生まれてからの記憶〈マイストーリー〉を、最初から全部遡ってみることをすすめてくれた。
これまで自分が感じたこと、考えてきたことをすべて書き出し、それをそのままブログで公開したらいいと。

特に、ネガティブな記憶と感情(辛い、悲しい、悔しいetc……)を洗いざらい出すのが大事だそう。
過去の棚卸しになるので、今引っかかっていることの原因がわかったりするとか。
また辿ってきた道、経験の一つ一つがその人の力になっているそう。
本人にとっては当たり前で、大したことないと思っていることが、才能だったりもするらしい。

私は割と、どうでもいいことまで覚えているタイプである。
さらに、思い出すままに書き出していくと、忘れていた記憶がどんどん蘇る……。
こんなこともあんなことも! 今まで完全に忘れてたのに!!
幼少期編だけでも、超膨大にある……。

「とてもじゃないけれど、ブログには全部書き切れないので、適当に抜粋して載せようと思います」的なことを先生に伝えた。
すると「そうすると、自分がよく見えそうなところだけピックアップするだろう。省略せず、全部載せよ」と言われた(笑)。

まあどれを載せるか載せないか選ぶのもよく考えたら面倒だし、ちょうどいいな!
ということで、長過ぎるので、小分けにして記事にしようと思う。
でも、ノートに手書きしたのを打ち直しているので、ただでさえものすごく時間がかかっている。
その上、芋づる式に色々思い出し過ぎて、なかなか進まない……(笑)。

実は小学校あたりまで進んだところで、思い出したくないことが多過ぎて嫌になり、しばらく放置していた。
でもずっと引っかかっていたので、コロナの影響で予定がなくなったりして時間ができたこのタイミングで、一気にやってしまおうと思う。

私のこれまでを、そのまま、ありのまま書いていく。

ちなみに、〈マイストーリー〉をノートにひたすら書きまくったおかげで、このへんの本音記事を書くことができた!

「こんな赤裸々すぎる本音、絶対公開できない!」と思っていたけれど、洗いざらい吐き出したらとてもスッキリした。ずっと離れられなかった不安から、解放された。

自分の感情を、素直に表現しやすくなったなと思う。いろいろな発見もあった。嬉しい〜。

それでは、はじまりはじまり。

大國沙織のマイストーリー① 幼少期・前編

私の生い立ち。

平成元年の10月29日午前5時12分、東京にて、私は大國家の長女として生まれた。

かなりの難産で、出産したあと、母は出血多量で死にかけたそうだ。
生死の淵を彷徨っている間、病院のベッドに横たわっている自分を見下ろしていたのだとか。
それって、幽体離脱じゃ……!?
内科医の父が異変に気付いたおかげで、母はどうにか一命を取りとめることができた。

そんな大変な最中も、私はずっと呑気に爆睡していたらしい(苦笑)。
母が助かって、本当によかった。そうじゃなかったら、妹にも会えなかった。

日本での記憶。妹の誕生など

東京には、3歳まで住んでいた。

母が、毎日のように絵本を読んでくれた。
坂を登って、近所の図書館に行くのが大好きだった。
借りる本を何冊も自分に選ばせてくれたのを覚えている。

母が趣味の手芸屋さんに一緒に行くのも、好きだった。

いろいろな色や形のボタンや、糸や布など、引き出しを一つずつ開け閉めして中身をチェックするのが楽しかった。
何時間でも飽きずにやっているので、親は付き合うのが大変だったらしい。
(よく付き合ってくれたなと思うw)

強烈な記憶として残っているのは、父との久しぶりの再会。

船医としてオーストラリア、ニュージーランド、アフリカなどを航海していた父が久しぶりに帰ってきたと思ったら、髭ボーボーの姿で現れた。

かなり衝撃すぎて、父じゃないみたいで怖過ぎた。

そもそも髭を放っておくとそんな風になることも知らなかったし……、しばらくは髭の生えている人、男の人がトラウマになった(笑)。

食べることが大好きだった。

いつも食い意地が張っていて、食べ終わったばかりなのに「次のごはんなに?」と母によく聞いていた。

なんでも美味しくて、好き嫌いがまったくなかった(今はめっちゃあるw)。

食べること自体本当に好きだったけれど、私が残さず完食すると親が喜ぶので、喜んでもらいたくて食べていたフシもある。

絵を描くのが大好きだった。

絵本をたくさん読んでもらっていた影響もあるかもしれない。

紙やホワイトボードに、いつも何かしら描いていた。(これは父の絵)

この時期の一番大きなエピソードとしては、妹が生まれたこと。私は3歳だった。

母は妹を産むために入院して、一週間ぐらい家にいなかった。
その間は祖母が代わりに来てくれて、身の回りのお世話をしてくれたのだけれど、母とそんなに長いこと会えないのは初めてだったので、寂しかった。

ようやく家に帰って来た母は、生まれたての小さな妹を抱きかかえていた。
つきっきりでお世話をしていて大変そうだったので、「お母さんを取られた……」とショックを受けたのを覚えている。

周りの大人達に「お姉ちゃんなんだから〜」と言われることが増え、自分にもそう言い聞かせて、甘えたいのを我慢していた。
自分の存在が、脅かされたように感じた。
第一子あるあるだろうけれど、この時色々なことを諦めたと思う。

それでも妹のことはとても可愛くて、私なりに面倒を見ているつもりだった。

ただ力加減がわからず、親がハラハラすることは頻繁にあったようで「妹をいじめないで!」とよく怒られていた。

私は一緒に遊んでいるだけのつもりだったので、そう言われるたびに悲しかったし、悔しかった。

アメリカへ。初めての空港、飛行機

父の仕事の関係でアメリカへ移住することになり、妹が飛行機に乗れるギリギリの月齢に達するやいなや、早速出発することになった。

首が座っていない赤ん坊を連れて、海を渡るという決断をするとは、なんと大胆な……と今でも改めて思う。

(ちなみに母は元CAで、乗客だった父とはじめて出会ったのもパリ行きの飛行機の中だったというから、海外に行くことに関してはまったく抵抗のない人達なのだ。振り回されるこっちの身にもなってほしいw)

出発の二日前。

このときはまだ、自分の身に何が降りかかろうとしているのか、お気楽な私はまるで分かっていなかった。

(「アメリカで困らないための本」……!w)

出発当日は、親戚一同が成田空港まで見送りに来てくれ「これはただ事ではない」と子供ながらに察した。まるで、今生の別れのような雰囲気だった。

しばらくは日本に戻って来られないということ、アメリカという異国の地に住むということを聞かされてはいたが、空港というだだっ広い場所に来たのも初めてで怖かった。

これからどこに連れて行かれてどうなってしまうのだろう、という恐怖と不安で私は号泣していた。

この写真を撮った人(親戚の誰か)、ナイス過ぎる。笑

飛行機に乗ると、これ以上抵抗しても仕方がないなと思い、なんだか諦めがついた。
初めて乗る飛行機は目新しくて、ちょっと気が紛れた。
寝たりご飯を食べたりしているうちに、あっという間にアメリカに着いた。

アメリカでの新生活

住むことになったのは、ネブラスカ州のオマハという田舎町だった。アメリカ大陸の、ちょうど真ん中あたり。

暮らす家が見つかるまでは、キッチン付きのコンドミニアムのようなところを転々とした。
家がコロコロ変わるのは、楽しくてワクワクした。

見るものすべてが新しくて、次はどんなところに行くんだろう!?と思っていた。
ようやく住む家が見つかった。

暖炉と煙突があったり、竜巻対策として地下室がついていたり、住んでいた東京のアパートの何倍も広く、探検するのが楽しかった。
古い家だったので壁に小さな穴が空いていて、そこを覗くと外の景色がよく見えて面白かった。
地下室はかなりボロくて、ネズミの家族が住んでいて可愛かった。

初めての一軒家だったので、どれだけ騒いでも、走り回っても怒られないのが良かった。
庭にはプレーリードッグという動物が穴を掘って住んでいて、たまに穴から顔を出すのが可愛かった。まさにこんな!↓

田舎なのでリスや野うさぎもよく道を横切った。

ご近所さんがとても親切で、色々教えてくれたり、ちょっと年上の女の子たちが一緒に遊んでくれたりした。

言葉は通じなくても、共有できるものはたくさんあった。

裏庭のプールで泳いだり、道路でローラーブレードで滑ったり、公園で遊んだり、一緒におやつを食べたりした。

初めての幼稚園、人種差別といじめに遭う。

4歳になり、幼稚園に通うことになった。
母が手作りのバッグを作ってくれて嬉しかった。これ↑

初めて面接に行ったところでは、割とあからさまな人種差別を受け、入園を断られた。
人種差別をいうものを経験したのが初めてだったので、ショックという感情はなく、「人間って見た目がちょっと違うだけでこんな扱いを受けたりするんだなぁ」という感じだった。
後々、人種差別を受けることが度々あり、アジア人であることがコンプレックスになった(今も多少ある)。

次に行ったところでは、快く受け入れてくれて早速通えることになった。
両方ともモンテッソーリの幼稚園だっただけれど、対応はえらい違いだった。
ところで、このときは両親が一緒だったので、一人で通うという実感があまりなかった。

いざ、入園初日。
車で送ってくれたのは、父だった。
母だとよりお別れが辛くなるから、という両親なりの配慮だったらしい。

父が車から私を下ろし、先生に預けて立ち去ろうとすると、私はこの世の終わりかのように泣き叫んだ。
父は後ろ髪を引かれるような辛さだったらしい。
父が行ってしまうと、私はもう泣いても無駄だと諦めた。
先生が抱き上げてくれて、少し安心した。

室内では、女性の先生が、床に直接あぐらで座っていてびっくりした。
その先生の顔も服装も、今でもハッキリと覚えている。

私があぐらをかくと、母に「女の子なんだから、そんな格好ははしたない」といつも注意されていたので、ここではいいんだ!と思った。
他の先生も、園児も皆そうしていたので、カルチャーショックだった。

「母の言うことは絶対」と思っていたのが、覆った瞬間でもあった。
結局、自分のしたいようにするのがいいんだなと思った。

私ははじめて、言葉がわからなくて困る、相手が何を言っているか理解できなくて不安という状況に直面した。

自由時間になり、椅子に座って休みたくなった私は、空いている椅子がないとわかると、一番近くにいた子を無理やり力づくで引きずり下ろし、そこに座った。
その子が号泣してしまい、先生が飛んできて咄嗟に「しまった」と思った。
先生はすぐ状況を見てとり、私に何か叱った。
英語でも、自分がどんな悪いことをしたかという自覚があるので、何を言っているかはなんとなくわかった。

それ以降、私は言葉が通じない苛立ちから、手が先に出てしまうという悪い癖がついてしまった。
周りの子に乱暴な振る舞いをしては、よく怒られていた。
円滑なコミュニケーションが取れない、自分の気持ちを必死に表現してもなかなか伝わらない、というもどかしさが常にあった。

でも、毎日色々なことで怒られたりしながら、少しずつ英語を覚えた。
他に注意されたのは、お手洗いに入るときに鍵をかけるな、ということ。
鍵をかけると開けられなくなることがあるから、閉めずに入ってね、ということだった。
ドアがちゃんと締まるような割としっかりした個室も広めのトイレだったけれど、鍵を閉めずに入っていたら、間違えて他の子に開けられてしまったことがあり、それが嫌だったのだ。
でも、そのときは英語力がなかったので、言い返せずモヤモヤした。

プライベートな空間なのに!と思った。
結局、先生の言うことは聞かなかったように思う(笑)。

園内では人種差別にあうことはなかったけれど、なぜか日本人の女の子にいじめられた。

日本人は私と彼女の二人だけだったので、最初は仲良くしていただけにとてもショックだった。
仲間はずれにされたりしたけれど、幸いほかに遊んでくれる子がいたのが救いだった。
優しくしてくれる白人の女の子もいて、人種とか関係ないな、と思った。

初めての現実逃避

幼稚園に通うのが結構なストレスだったので、道中はだんだん幼稚園に近づいていく景色を見たくなくて、車の中で目をつぶっていた。
あるとき目を瞑ると、そこに宇宙が広がっていることに気付いた。

真っ暗闇に浮かぶ、たくさんのキラキラした星や惑星、天の川のような銀河。
それらをジーッと見つめていると、自分がその宇宙空間に吸い込まれていき、どこへでも自由自在に飛び回ることができた。

それが楽しくて、私はよく自分の意識を宇宙に飛ばして遊んだ。
毎朝仕事に行くその足で私を幼稚園に送ってくれていた父は、私がただ眠くて寝ていると思ったらしく、到着するといつも「着いたよ」と起こしてくれた。

もしかすると、これがはじめて覚えた現実逃避かもしれない。
なんとなくいけないことのような気がして、親にはずっと黙っていた。

エスカレーター事件

家族でニューヨークを旅行中、デパートに入った。
ちょうど祖父やいとこたちが遊びに来ていたので、一緒だった。
私は買い物に飽きてしまい、一人でエスカレーターで遊んでいた。
いつも乗ったらすぐ通り過ぎてしまうので「どんな仕組みになっているか」に興味があった。

すると、手すりの巻き込み口に手がどんどん引き込まれてしまい、抜けなくなってしまった。
引っ張っても腕が抜けず、手は痛いし、パニックになった。
トイレに行きたかったのと、気が動転していたのとで、お漏らししてしまった。
通りがかった人が私の異変に気付いて、助けを呼びに行ってくれた。
エスカレーターを止めるようにと、スタッフの人も呼びに行ってくれた。

そうこうしているうちに、家族と親戚もやってきた。
エスカレーターを逆向きに回してもらうと、ようやく私の手が出てきた。
真っ赤に火傷してぺったんこになっていた。
父からは、むやみやたらにエスカレーターで遊ばないように、そして一人にならないようにと叱られた。
デパートのスタッフの人に「救急車に乗りますか?」と聞かれた。
「骨は折れてなさそうだし、病院に行くほどではない」と父が判断し、結局行かなかった。

履いていたスカートが濡れてしまったので、すぐに新しいのを買ってもらえて嬉しかった。
今でも思い出せる。赤地に白い小花柄。お店はGAPだったと思う。
帰り道は、ノーパンだったので開放的で気持ちがよかった。
ルンルンで泊まっていたホテルに帰った。笑
自分の好奇心を満たせたのと、小さな冒険を果たした気分で、私は満足していた。
不思議とネガティブな記憶ではないw
大勢の人だかりができてしまって恥ずかしさは多少あったけれど、エスカレーターがトラウマ、ということもまったくない。
手はしばらくピリピリと痛かったけれど、数日で元どおりになった。

この日さんざん叱られたのに、私はあまり懲りずに同じようなことを繰り返した。

何度でも、トゲ事件

また違う旅先では、ホテルの通路にあったトゲトゲのロープは危ないから触るなと言われたのに、好奇心からつい触ってしまい、指にトゲが刺さった。

部屋のベッドの上で、父が針やライターの火を使って、苦戦しながら抜いてくれた。
深く入ってしまっていたのでものすごく痛くて、血も止まらず、もう一生トゲトゲのものなんて触るもんか! と泣き叫びながら誓った。
でも、すぐ忘れたw

その後も何度か、私は指にトゲを刺し、そのたびに大騒ぎになった。人騒がせ過ぎる……。

「やりたい!」と思ったことが我慢できない性格で、かなりお転婆だったと思う。

【つづく】

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