やっと念願の「読書解禁令」が出たけれど、私は今とても戸惑っている。自分の泉をもっと湧き上がらせたい!

  • 2020年2月10日
  • 2020年5月10日
  • SPIRIT

こんにちは。庶民の会話を聴いていると、耳が腐りそう子です。名前の由来はこちら

(ほんとヤバいなこの名前w 次はもっとマシな名前がもらえるように頑張る!)

私のブログを念入りに読んでくれている方は覚えているかもしれないけれど、実はここ数ヶ月間、自分と向き合うために徹底的な情報断ちをしてきた。

▼詳しくはこちら。

この記事に書いた以上の変化が、この後私に起こるのだった。今日はそのお話! いわばこれの続編!

「本を読むのが一番の生きがい!」と思っていた私が、一切の本を読まずに4ヶ月近く過ごした。本だけでなく、雑誌や映画、ブログ、SNS、TV(これは元々観ないが)など、外側からのインプットはすべて禁止。

「そんなの、現代社会に生きてたら不可能!」って感じだし、相川先生は鬼なんじゃないかと本気で思った(笑)。

別に言うことを聞くも聞かないも本当は自由なのだけれど、やったらどうなるんだろうという好奇心と、その先の景色を見てみたいと思ったので、徹底的にやってみようと思った。

自分のうだつの上がらない生き方にいい加減嫌気も差していたので、何か突破口になるかもという期待もあった。

禁断症状が何度も出て、「もうダメだ、死ぬ〜! 何でもいいから、なんか読みたい! 私に活字をくれ〜!!」という感じになり発狂しそうだった。毎日騒いでいたので、家族は迷惑そうだった。w

自分と向き合い過ぎて、堂々巡りになり「自分と向き合うのもいいけど、もうこれ以上何も出てこないわ!」という八方塞がりな気持ちにもなった。

でも、それは大きな勘違いだった。

それはあたかも、足のつく浅瀬が海のすべてだと思っていた幼い子供が、どこまでも深くて広い深海の世界を知って驚き、気が遠くなるようなものだった。

私、自分のこと全然知らなかったし、理解できていなかった! 他でもない自分なのに……!!

自分の「泉」に何かを注ぐのをやめてみたら。

私は明らかに、インプット過多だった!

振り返るとここ10年以上、私は自分の「泉」に、ジャバジャバと外側から余計なものを注ぎまくっていた。

それは主に本であったが、あるときはそれが他人の考えであったり、ブログだったり、映画だったり、雑誌やSNSの情報だったりした。

私は真実を求めていて必死だったのに、色々なものを入れ過ぎて、心は泥のように濁っていた。

頭の中もグチャグチャだった。

より質のいいインプットをしようと、自己啓発本を読んだり、セミナーに行ったり、ときにカウンセリングを受けたりした。

でも、私の探し求めていたものはどこにもなかった。

とはいえ、インプットを一切辞めるというのは、かなりの勇気と強い意志が必要だった。

自分が、自分でなくなるような怖さもあった。(実際は、その真逆だったのだけれど!w)

『沙織物語』を紡ぐ。

だから本を読むなと先生に言われたとき、ものすごく嫌だった。

私は、紫式部の『源氏物語』が大好きで大学でも専攻していたぐらいなので、「古典もダメですか?」と食い下がった。そもそも現代の話じゃないしいいのでは、と思ったのだけれど、我ながら往生際が悪過ぎる。w

でも、答えはNOだった。

そのときに言われて印象的だったのが、「源氏物語もいいけど、沙織物語を紡ぎなさい」というフレーズ。

沙織物語……!!!!!?  

衝撃で、身体中に電流が走った。

そうか、私はこれまで、他の誰かの物語を必死に紡ごうとしていたのか!!

「自分に何かが足りない」とずっと思っていたので、それを埋めるような行動ばかりしていた。

読書もそのひとつ。自分以外の、自分よりもすごい誰かに、必死でなろうとしていた。それが板につけば、理想の自分になれると思い込んでいた。

肝心の自分が、完全にそっちのけになっていた。

私の分身である『沙織物語』の本は、長年放置され続けて、部屋の隅に埋もれて埃をかぶっていた。

私の感じていた不足感の正体が、やっとわかった。

自分と本当の意味で向き合うことだけが、圧倒的に足りていなかったのだ。それを外側から埋めようったって、そもそも無理な話だ。

それに気付いたとき、これまでの自分に対して、とても申し訳ない気持ちになった。

だから、本を読めなくて辛いと思うときも、「私は今、沙織物語を紡いでいるところなんだ!」と言い聞かせて耐え、自分と向き合った。

真ん中に「織物」って漢字が入っていてまさに紡ぐのにぴったりだし、響きも美しいし、すっかり気に入った!

今後、苦難が訪れたとしても「うんうん、沙織物語にはやっぱり、山も谷もないと盛り上がらないもんね……!」と大きな心で思えそうである。

そうやってどうにかやり過ごしているうちに「何かを読みたくてたまらない!」という衝動は気付けば落ち着いていた。

その代わり、自分の中から湧いてくるものに興味津々になった。海外一人旅をしたりして、その気持ちはますます強くなった。

自分が何をしたときにどんなことを感じるのかということが、いちいち新鮮に映ったし、自分の本当の気持ち、本音がわかるようになってきた。

本を読みまくっていた頃は、自分が何をやりたいのかさえ、よくわからなかった。自分のことなのに、奇妙な話だ。

念願の読書解禁だったのに……!?

そして読書解禁のタイミングは、思ったより早く、あっけなく訪れた。

自分と向き合って、自己開示できたから許可してもらえたと解釈しているのだけれど、いざそうなったら「ん、これは喜んでいいのか!?」と戸惑ってしまった。

この数ヶ月間、一切本を読まない、映画も観ない、人のブログも読まない、SNSも必要最低限しか見ない、極力誰にも会わないという「徹底した情報断ち」をした。

現代社会から完全に隔絶されたような心地がしたし、いつ終わるかわからない、まるで修行僧のような時間だった。

さらに不安や心配など、自分のネガティブな感情をアウトプットし尽くした。怖かったけれど、とてもすっきりすると同時に、それを手放すことができた。

その記事を読んでも、今の気持ちともう全然違う! 出し尽くすってものすごく大事だ!

そしてふと気付けば、私の「泉」からは、こんこんと綺麗な水が湧き出していた。

それは、ずっと私が望んでいたものだった。涼しげな水音まで聞こえてくるかのよう!

(冷静に考えたら、上からジャバジャバ違うものを注ぎ続けていたら、自分の水なんて湧き出てくる訳がない)

つまり、自分がどう感じるか、どう思うか、どう表現したいのか、が瞬間瞬間で、ハッキリとわかるようになった。 

私は「他の誰とも違う、唯一無二の存在である」ということが、腑に落ちた。

だから、他人の発言や考えから答えを得ようとしても、得られるはずがない。

自分の外側に、求めている答えなんて存在しない。それは幻想だ。自分と向き合い、自分の内側を、徹底的に探るしかない。

人間は一人一人違うから、本来は皆そうなのだと、心から思う。

そしてどんなときも妥協することなく、本音を人に伝えることができるようになった。

(最近一番自分にウケたエピソードは、初対面の方のお家にお邪魔したとき、何種類かお茶の箱を出してくれて「どれがいい?」と聞いてくれたのだけど、戸棚に入っている全然別のお茶を指差して「あれがいいです!」と答えたこと。w 

我ながらワガママ過ぎるけど、それも出そうか迷ったお茶だったらしく、とても快く出していただいた! こういう小さいところにも本音が出ちゃう。もうそういう風にしか生きられないのかもしれない。笑)

誰かからの借り物の言葉でなくて、ほかでもない自分の言葉がとめどなく溢れてくるのも、この上なく気持ちがいい。清々しい! メモが追いつかないほど!

今の私は、ものすごく透明度が高くて、クリアな感じがする。

それを汚したくない。

他人の考えや情報を入れてしまうことで、純度を濁らせたくない。

(自分が心から尊敬していて信頼できる人の、ピンとくる考えだけ取り入れたい。)

自分の探究を、もっともっとしたい。

私の泉からは、まだ冷たい水がサラサラと流れ出しているだけだけれど、熱い温泉が勢いよく湧き出してくるまで、とことん掘り下げたい。

思うままに感じるままに、アウトプットしまくりたい。

不思議なことに、アウトプットすればするほど、またどんどん新たなものが湧いてくる。湯水のごとく!

良質なアウトプットのためには、それ以上のインプットが必要だと、思い込んでいた。

ある意味では、真実かもしれない。何もないところからは、何も生まれないから。

でも今は「もう本を読んでいいよ」と言われても、不思議と読む気にならない。

そんな自分の変化に、私が一番驚いている! あんなにも強く「早く本を読めるようになりたい、だからさっさと修行を終わらせよう」そう思っていたのに!w

今、私はこのまま突っ走りたい!

その自分の衝動に、ただ従うのみ……!!

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